茨木マイカルの開業とともに衰退したJR茨木駅商圏ですが、阪急茨木市駅商圏も同じ時期から縮みはじめていました。特に阪急茨木市駅東側でその傾向は顕著でした。

そもそも江戸時代から茨木の市街地は茨木神社など旧茨木川に沿って広がっていたはずです。

しかし阪急(京阪神急行)が開業した当時、まだ線路の東側には市街地の広がりはなかったと思います。おそらく水田が広がっていたのではないでしょうか。

水田の向こうに、溝咋神社のあたりの五十鈴町や佐奈部神社のあたりの水尾や稲葉町の集落が望めたはずです。

戦後に駅に近い舟木町や園田町などに一気に文化住宅ができて宅地が広がったはずです。阪急電鉄も大池や玉瀬町、大同町あたりで阪急住宅といわれる高級分譲地開発を進めました。

1970年代には当時イケイケドンドンだったダイエーが中津町で田んぼを埋め立てて開業しました。どこかで開業時の写真を見たことがありますが、あの当時末広町や中村町には一面の田んぼが残っていたのです。

駅とダイエーの間には商店街が発展し、中川無線(いまのダイコクドラッグのビル)やミドリ電化(いまのコジマ)、上新電機(なんと生き残っている!)といった家電量販店の集積ができました。

当時北摂で電子部品を買えるのは中川無線だけでした。ここになければ日本橋に行くしかなかったのです。

その後1980年代には、中津町の牟礼墓地の向かいの田んぼにジャスコができました。阪急東口が西口と肩を並べるまでの発展を遂げたのです。

もちろん、西口も繁栄していました。いまは2階以上はゴーストタウンとなったソシオも、当時は若者が集まるスポットでした。服屋や本屋やレコード屋などもありました。今の感覚でいえばパルコ的なイメージでした。

地下の飲食店も繁盛していて、なか卯は紅生姜と天かす入れ放題ということで塾通いの中高生も多く利用していました。

そして平成に入って90年代には阪急が連続立体交差事業で高架になり、駅の下にはロサヴィアができました。茨木の街は永遠に発展するのだと信じていました。

変調が起こるのは、バブル崩壊後です。バブル崩壊と阪神淡路大震災で損失があったダイエーも撤退し、家電戦争で家電量販店が次々に店舗を畳んでしまい、東口から衰退が始まりました。

人工的にできた街というのは、拡大も早いのですが、衰退も早いように思います。人工の街の多くは、大企業が展開してくるからだと思われます。

とくに個人店は粘りますが、大企業は採算が悪くなるとあっという間に撤退するからです。だから東口の衰退はあっという間でした。

その点で西口は粘りました。ソシオは駅前の再開発ビルという立地の良さもあり大企業も進出していましたが、大企業から撤退してきました。思えばロサヴィアにも顧客を取られたのかもしれません。

しかし阪急本通など江戸時代からの中心市街地は、つい最近まで耐え続けてきました。

(続く)

弱体化する阪急茨木市駅商圏に本当に必要なもの(2)

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